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国宝・大浦天主堂は、外国人のための教会として1864年に建てられました。翌年の献堂式後、浦上の潜伏キリシタンがプティジャン神父に信仰を告白した世界宗教史上の奇跡「信徒発見」の舞台となりました。現存する国内最古の教会です。
禁教期、外海の潜伏キリシタンは海に近い谷間に開けたわずかな平地に移住し、信仰を続けました。解禁後の家御堂を経て、1918年に建てられた江上天主堂は、長崎の木材教会の中でも特に整った形式を見せる教会です。
禁教期に外目などから移住した潜伏キリシタンは、仏教寺院から信仰を黙認されつつ、信仰を続けました。解禁後、仮御堂を経て、島の中心に教会が建てられました。1902年完成の黒島天主堂は、国内でも大型のレンガ造りの教会です。
禁教期の潜伏キリシタンは、アワビやタイラギの貝殻内側の模様を聖母マリアに見立てて崇拝するなど、漁村独特の信仰を育みました。解禁後の1885年に旧教会が、1934年に現在の﨑津教会が建てられました。﨑津教会は、「海の天主堂」とも呼ばれています。
禁教期、外海から移住した潜伏キリシタンは、仏教徒の開拓指導者のもと、無人島である頭ヶ島に移住し、信仰を続けました。解禁後の1919年、近くの島の砂岩を用いて建てられた頭ヶ島天主堂は、内部の椿の装飾が美しく「花の御堂」とも呼ばれています。
1637年に圧政と飢饉を契機にキリシタンや農民らが蜂起した「島原・天草一揆」の舞台。この出来事により2世紀を超える海禁体制(鎖国)が確立された。原城跡全体が禁教初期の物証で、関係する遺構や遺物が数多く見つかっています。
禁教期の潜伏キリシタンは、聖画や教義書、教会暦などを密かに伝承し、信仰を続けた。解禁後の1882年に建てられた出津教会堂は、海からの強風を意識して低い屋根にされたと言われています。集落内の旧出津救助院は、授産として利用されていました。
小さな海底炭坑の島は、岸壁が島全体を囲い高層鉄筋コンクリートが立ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に似ているところから「軍艦島」と呼ばれるようになりました。最盛期の1960年には約5300人もの人が住み、当時の東京都区部の9倍もの人口密度に達し、島内には小中学校や病院など生活は全て島内で賄えるようになり、映画館やパチンコホールなどの娯楽施設もそろっていました。端島炭坑の石炭はとても良質で、隣接する高島炭坑とともに日本の近代化を支えましたが、主要エネルギーが石炭から石油へと移行したことにより1974年に閉山、島は無人となりました。2009年4月には一般の方の上陸が可能となりました。出典:ながさきたびネット(一社)長崎県観光連盟 長崎県文化観光国際部観光振興課
龍踊りは、日本三大祭の一つとして全国的に有名な長崎諏訪神社のくんちに奉納される勇壮な郷土芸能です。もともとは中国で五穀豊饒を祈る雨乞い神事に始まったものといわれており、中国の年中行事や記念祭などには欠くことの出来ない催物となっておりました。当時、唐人屋敷と隣接し密接な関係にあった長崎市本籠町の町民が唐人達の指導を受け、三百余年の間にその踊り方は非常に巧みになり、日本独特の巧妙な演技を見せるに至ったのであります。 1979年長崎くんち奉納踊として国の無形文化財に選定されております。※出典:一社 長崎国際観光コンベンション協会Webサイトより一部抜粋
1915年11月16日に操業開始しました。100年を超える開業から今日まで、長崎へ の原爆投下、モータリゼーションの到来、長崎大水害などを乗り越え、今もなお、長崎市民や世界中の観光客の貴重な交通手段として親しまれています。出典:長崎電気軌道株式会社Webサイトより一部抜粋
貿易商であり、グラバー商会を設立したトーマス・ブレーク・グラバーが住んでいた日本最古(1863年)の木造洋風建築で、1961年6月7日、主屋・附属屋が国の重要文化財に指定されました。出典:グラバー園公式ウェブサイト – 長崎市より一部抜粋
1634年、興福寺の黙子如定禅師が架設したこの眼鏡橋は、長さ22m 幅3.65m 川面までの高さ5.46mで日本初のアーチ式石橋として有名です。川面に映った影が双円を描き「メガネ」に見えることから、この名前がついたと言われ『日本橋』『錦帯橋』と並び日本三名橋に数えられます。また1982年の長崎大水害で一部崩壊しましたが翌年復元され国の重要文化財に指定されています。近年では、眼鏡橋をはじめとする中島川護岸にあるハートストーンが、愛を願うパワースポットとして人気を集めています。※出典:ながさきたびネット(一社)長崎県観光連盟 長崎県文化観光国際部観光振興課Webサイトより一部抜粋
1637年、厳しい年貢の取り立てに蜂起した島原・天草一揆勢37,000人は、天草四郎を大将に原城へ立て篭もり幕府軍12万人と戦い鎮圧されました。一揆軍のほとんどがキリシタンであったため、城跡から十字架やロザリオの珠など多くの信仰具が発見されています。
1865年に完成を祝って献堂式が行われた大浦天主堂。その青銅を訪れた婦人の一団は、約250年の長い間 禁教令による弾圧に耐え忍びキリストへの厚い信仰をもって潜伏していた浦上信徒達でした。この「信徒発見」は、宗教歴史上において尊き奇跡と呼ばれています。
1582年、キリシタン大名とイエズス会の命により、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの四人の少年がヨーロッパに派遣され、スペイン・ポルトガル国王とローマ教皇に拝謁しました。しかし禁教令下の帰国は彼らにとって過酷なものでした。
250年以上に渡るキリスト教禁教政策の下、長崎と天草地方において弾圧に耐えながら密かに信仰を守り続けていた潜伏キリシタンの存在は世界宗教市場大変珍しく貴重であり、それらを示す生活集落などの資産群が残されていることに認定されました。