森長は寛政5年におこし屋として創業いたしました。
当時まだ米は貴重な食べ物でしたが、諫早の農家では、豊作を祝う秋の祭りや正月など特別な日には米や米菓子を大いに食べて、鋭気を養ったようです。
初代龍吉が、この米菓子に独自の製法を思案してつくりましたのが黒砂糖をまぜた、いわゆる諫早おこしのはじまりです。
おこしのはじまり
承平年間(931~938年)に作られた事典「和名類聚抄」にも記述があるほど、「おこし」は古い歴史があります。
アジア諸地域にも同様の食べ物が見られることから、稲作と共に大陸から伝来したと言われています。
諫早は広大な干拓地が広がり、古くから稲作が盛んに行われていた県内唯一の穀倉地帯です。
「諫早おこし」の特徴は、うるち米を唐アクと塩を混ぜた溶液に漬け込み、それを天日に干して、むしろに巻いて一年ほど寝かせ、製造する直前にそれを煎って、乾飯(ほしいい)とすることです。
唐アクを使うところに、異国文化漂う長崎らしさが出ていると思います。
長崎街道の宿場町(永昌宿)であった諫早は、有明海に面し、陸路・海路の要所という土地柄と長崎(出島)に近いこともあり、砂糖が容易に手に入ったことから、初代龍吉(りゅうきち)は、おこし業を生業としました。
「島原大変、肥後迷惑。」と言われた雲仙眉山の地すべりの翌年(1793年)のことです。